[15] The Writer as Migrant


1989年の天安門大虐殺後に、欧米に亡命した中国人は数知れず。その事件以前に欧米留学していた中国人は、そのまま欧米に残り、既に20年が過ぎる。
そうした米国に住む中国人の中で、近年、特記に値する優れた作家たちが、米国文学界に確かな存在を位置付け始めている。
中でも、Yiyun Li とHa Jin の優秀さには、目を見張るものがある。
二人とも米国の有名大学で英語を教えており、共通しているのは、卓越した英語力とその表現力だ。

Yiyun Li は、中国にいた頃から、手元にある本の数は少なくとも、英国の古典小説を繰り返し読み込んできた。それゆえか、彼女の書く文章は、実に美しい。情景があたかも映画のシーンのように、静かに、且つしっかりとした存在感を与えながら流れていく。これほどまでの表現力は、現在の米国文学界において、かなり珍しい存在だ。そうした彼女の作品は、他の作家の作品を抜いて、多くの文学賞を受賞し続けている。

Yiyun Li とHa Jin 共に、英語でしか書かないという点も興味深い。
中国語というのは、書き言葉と話し言葉は、全く別のものと言えるほど、書き言葉での表現は限られたものとなるらしい。それに加え、中国共産党による検閲により、内容を訂正させられるか、あるいは出版禁止となることは日常茶飯事。
Ha Jin は、自分の声を半永久に残すためには、英語で出版するしかないと、そしてYiyun Li は、中国語で作品を書こうとすると、書けなくなると言う。

英語を第二言語とする人間が、英語で作品を書き続けるということの意味を深く掘り下げたエッセイ集が、このHa Jin 著「The Writer as Migrant (ISBN-13: 978-0226399881)」だ。

何故自分は英語で作品を書き続けるのか。新境地、それは亡命地となる場合もあれば、移民地となる場合もあるが、その異国において、作品を英語で書く自分の位置付け。自分は誰に何を伝えようとしているのか。自分の声は、単なる自分だけの声なのか。それとも母国や民族を代表としている声なのか。英語で書くということは、同時に、母国語でしか理解できない母国民を排除した行為とならないのか。母国へ積もるノスタルジアに反して、変わり果てた母国へ帰るということ等、86ページという、英語の本としては非常に薄いものだが、問いかけている内容は一つ一つ重く、考えさせられる。

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